大日本帝国憲法下の解散詔書は「朕帝国憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス」と表現されていたが、日本国憲法下では「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する」と口語文の平仮名書きに改められた。後者の詔書には「朕」(天皇の一人称)=主語が明記されておらず、議長の読み上げ文だけを聞く限り、素人目には誰が解散するのか分からない。詔書全体では、この後に御名御璽があるため、主語が天皇であることは明白であり、日本国憲法第7条の趣旨と合致する。これは、日本国憲法においても天皇が元首であるとする勢力とそうでないとする勢力とのせめぎ合いの中で、妥協の産物として成立した文面である。 衆議院の解散に関するマスコミ報道等では、国務大臣が解散詔書に署名したなどと報じられることがあるが、これは明らかに誤りである。国務大臣が署名する対象は、天皇の国事行為(衆議院の解散)に関する閣議決定書である。解散詔書に署名(副署)するのは、天皇及び内閣総理大臣のみである。 解散詔書の原本は、公文書として内閣官房で保管される。衆議院議長が本会議場で読み上げるものは、詔書そのものではなく、詔書の「写し」(天皇の署名、御璽の押捺が「御名御璽」と書き換えられている)である。詔書の「写し」は、衆議院議長のあて名が書かれた白色の封筒に、内閣総理大臣からの伝達書とともに収められる。 解散権制限 内閣の衆議院解散権が制限される明白な規定はない。しかし、衆院選の一票の格差や在外選挙で最終審で違憲判決(または違憲状態)とする確定した場合、違憲状態を残したままでは衆議院を解散をして総選挙することは控えるべきとされている。違憲状態が明白のまま総選挙をしても、その後で最高裁が解散総選挙無効と目されている。 政局など 衆議院の解散は、事実上の解散権限を持っている内閣総理大臣の伝家の日経225 と呼ばれる。 内閣・与党の支持率及び選挙の勝算を考慮した結果として、国会が開かれていない時期に衆議院が解散されることが適切だと政治的に判断される場合には、臨時国会を召集し、その冒頭で衆議院を解散する(召集時解散)。 国会が開会されていない期間中でも衆議院の解散は可能とされている[4]。但し、国会閉会中の衆議院解散については、現憲法施行以来、今まで行われた例は一度たりともない。 衆議院の解散が起こりそうな政局を、しばしば「解散風が吹く」と表現することがある。 佐藤栄作は「内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる」と、小泉純一郎は「首相の権力の最大の源泉は解散権と人事権」と語り、衆議院解散権は内閣総理大臣の強大なる権力の源泉とも言える。また加藤紘一は「解散の時期に関して政治家は権力から遠ければ遠いほど疑心暗鬼になり、近ければ近いほど操作したくなる」と語っており、政界でも「衆議院解散と金利については嘘を言ってもいい」と表現されるほど、様々な政局に応じて衆議院解散権が牽制に使われたり不意打ちに行使されたりしても、当然という認識が浸透している。 以下のとおり、CFD の解散にはそれぞれ呼称が存在する。しかし、いくつかの解散には、一つの呼称だけでは世間に浸透していないものもあり、複数の呼称が存在するものもある。 大日本帝国憲法の下での衆議院の解散は、天皇の大権に属し(第7条)国務大臣の輔弼に基づき(第55条第1項)権限を行使した。このため解散を現実的に決定したのは内閣であった。 解散の手続は、帝国議会時代に先例として確立し、日本国憲法下にもほぼ踏襲されている。ただし、解散詔書の文面は前述のように「朕帝国憲法第七条ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス」と主語が明確に書かれ、天皇が主体的に解散を行っているという形式を採っている。 衆議院が予算の先議権を有することは、大日本帝国憲法でも規定されていた。そのため、初期議会において、くりっく365 は憲法の運用を通じて政治的影響力を増大させ、憲法発布当初は超然主義を採っていた藩閥政府と激しく対立した。藩閥政府はこうした政党の攻勢に対抗するため、衆議院を解散した。最初の衆議院解散は松方内閣によって、1891年12月15日に行われた。さらに、任期満了又は先の解散から1年以内に再び衆議院を解散することもしばしば行われた。 1897年12月25日の第11回帝国議会の解散から、議場で議員が万歳三唱をするようになった。なぜ「万歳三唱」を行うようになったかは不明[5]である。元内閣総理大臣の中曽根康弘によると、「大日本帝国憲法下では、『解散の詔書』が包まれる紫の袱紗(ふくさ)に象徴される天皇陛下万歳というのが始まり」とし、「職を失った者が総選挙という戦場に万歳・突撃するという気持ちだ。」としている。他の説として英国議会で「『国王陛下、長生きを』と唱和するのに倣って、天皇の長寿を祈念した」とか「戦前は超然内閣が政党に対抗して解散することが多く、議員が自暴自棄になった」などがある。衆議院事務局は「慣例」としか回答していない。 加藤高明内閣以降には、元老が内閣総理大臣を奏薦する際に憲政の常道が重視されるようになり、衆議院第一党の内閣が倒れた際には衆議院第二党の党首が奏薦されるようになった。衆議院第二党の党首が政権を担当した場合には、内閣の基盤を強化する目的で早期に衆議院を解散することが多かった。 その後、五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されてからは、内閣総理大臣は軍人など政党の党首以外から奏薦されるようになった。陸軍首相の林内閣において最初の予算が成立した直後、1937年3月31日に行われた解散には、重要法案の阻止を図ったという理由以外には特に理由がなく、政党からは「食い逃げ解散」と呼ばれて批判された。この解散は政党勢力を弱体化させるために行われたといわれているが、各政党が議席を伸ばす結果となり、林内閣は5月31日に総辞職した。 ポツダム宣言受諾後の1945年12月18日に行われた解散はGHQの幣原喜重郎内閣への指令によるものであり、終戦解散又はGHQ解散と呼ばれた。この解散を受け、当初翌年1月に行われるはずだった総選挙は3ヶ月延期され、立候補予定者の資格審査(軍国主義者の排除)の後、1946年4月10日に実施された。 大日本帝国憲法下での最後の解散は、第一次吉田茂内閣において1947年3月31日に行われ、新憲法解散又は第2次GHQ解散と呼ばれた。この解散も、GHQの指令に基づくものであった。 日本国憲法第54条2項ただし書・3項に規定された制度で、1955年(昭和30年)3月18日以降は国会法99条〜102条の5と参議院規則251条〜252条にその詳細が規定されている(その前日までは国会法・参議院規則の両方に規定がなく参議院緊急集会規則に詳細が規定されていた)。 衆議院が解散され総選挙で新しい衆議院が成立するまでの間に、国に緊急の必要があるときに、内閣の求めにより開かれる(憲法54条2項但書、国会法99条)。参議院が自ら緊急集会を開くことはできない。国会の会期ではないため、天皇による国事行為としての国会召集は行われない。 緊急集会期間中は、参議院議員の不逮捕特権や緊急集会開会前に逮捕された参議院議員への釈放要求が認められている(国会法100条)。議題は内閣が明示的に提出した案件に制限され、議員の発議権も案件の関連するものに限定される(国会法101条)。また緊急集会では衆院予算先議権の例外として、衆議院より先に参議院で予算案を審議して採決をすることができるが、内閣に提出権がない憲法改正を議題にできないとされている。 緊急集会は会期が存在せず、全ての議題を採決した時点で、議長が終会を宣言し終了となる(国会法102条の2)。全ての議題の採決を終了する前に特別国会が開会された場合、緊急集会の残りの議題は特別国会に吸収され、緊急集会は終了となる。 緊急集会でとられた措置は、臨時のものであるため、次の国会開会後10日以内(開会日算入)に衆議院の同意が得られない場合は、将来に向かって失効する(憲法54条3項)。